【笑い神】が面白かったので感想

さてとポテト。

M-1をテーマにした週刊文春の連載をまとめた本。

笑い飯についてもそうだし、芸人の面白エピソードとかいいとこばっかり言うようなものでなく、いろんな芸人やM-1関係者たちのいろんな感情から、M-1や(特に関西の)芸人界隈のリアルを掘り進めた結果、笑い飯の異質さが炙り出されたという感じ。

この記事は、ほぼ笑い飯についての感想文です。

笑い飯に感じる「天下獲れなかった感」

表紙の通り全体の軸となる笑い飯二人の仲も良好とは言い難く、全編「笑える面白さ」というよりも、ヒリヒリ感。

ケンドーコバヤシが、「中村さん(著者)のしてはることが一番寒いと思いますよ」とマジトーンで語っているように、真剣さとか青春とか苦悩とか、芸人にとっての恥部を晒すような、客には見せたくない、お笑いを楽しむに当たって不要というよりも見えない方がいい世界が見せられるため、そこに興味のない人はわざわざ読まない方がいい。

M-1初出場から、やっとダウンタウンの次が出てきたかと思って見ていた私のような人間が、その後の笑い飯に感じる「天下獲れなかった感」も、読み進めるほど納得できてしまう。

キンコン西野にも嫌われるお笑いケンカ売り笑い飯

笑い飯をひと言で言うなら「面白さだけがすべて」。

誰かがすべった時やつまらないことを言った時に、「ノンスタイルやないんやから」とか「足軽エンペラーやないんやから」と、面白くないと思っている(た?)コンビの名前を出すのは哲夫の常套手段で、アイドル的な売れ方(だけ)だった当時、キングコングもその類の被害にあい、「噛みつくなら上(先輩)にいけや」と、好きだった笑い飯が大嫌いになったと西野。

一見、後輩イジメのように映るが、笑い飯側の視点で見れば、基準は「先輩後輩」ではなく、「面白いかつまらないか」でしかないのである。

まぁそれにしても、より現代的視点で見れば「芸人ハラスメント」と言っていいレベルの仕打ちを手あたり次第に繰り返してことは想像に難くない。

関西において「面白い」と「ケンカが強い」は同じようなノリで、笑い飯(特に哲夫)の「お笑いケンカ売り」っぷりがヒドく、そんな二人を間近で見てきた千鳥の今が(天下を獲るための)最適解なのだろう。

第二の笑い飯にならなかった千鳥のバランス

相応にバランスを考えているはずの千鳥でさえ、好きにやっているように見えるのだから、笑い飯の極端さはよほどだ。

千鳥の笑いを鍛え上げたのが笑い飯であることは読めば分かる(もちろん互いに高め合ったとも言える)が、18、19で笑い飯と出会った千鳥の二人曰く、5歳上の笑い飯の第一印象は「キモいおっさん」で、それから濃密な時を共に過ごし、面白さにおいては腹から認めていても、「自分も同じ(傍から見たら)変なヤツになりかけている」という葛藤のようなものは拭い切れておらず、それがつまりは、「天下獲り」のジャマになったもののように感じられた。

インディーズ芸人時代、西田は腰までの長髪に黄色いレンズの丸メガネをかけ、哲夫は軍服かのようなくるぶし丈のコートを愛用し、面白さにオシャレなんか関係あるかと、(世間的な尺度を度外視した)ただ好きなものを身に着けた様が異様で、「面白さ」の足を引っぱっている現実。

「面白さ」のみに全フリしたチャートの、他の項目の目盛りがゼロどころかマイナスで、結果、10であるはずの面白さが9にも8にも下がっていく。

ただ、これだけの年月を経ての今ということは、たとえ「面白さ」以外に割り振れるポイントが残っていても、そんな手持ちのポイントは使わずに捨ててしまうのが笑い飯なのだろう。

西田自身が、自分は演出上必要なことでもつまらないものはつまらない(からイヤだ)となるが、千鳥はつまらないものを面白くできる、というようなこと言っていて、例えそれが天下獲りに必要であろうと分かっていたとしても、自分たちの笑いを貫くのである。

西田と哲夫の「天下獲り観」のちがい

特に西田にその傾向が強く、二人がやりたいエロ番組のテイストの違いで、マジな言い合いになったエピソードが本質を突いている。

哲夫はゴールデンでエロ番組がしたい、西田は深夜でこっそりやりたい。

哲夫の場合は、「面白さ」と「天下獲り」が地続きになっていて、自分の面白さで天下獲って、(誰もやってない)ゴールデンでエロ番組やったらあぐらいのノリ。

西田の方は、エロ番組の面白さは深夜でこそみたいな感覚で、あくまで(エロを活かした)「面白さ」が最重要事項。

突き詰めれば、西田は自分の面白さを証明することが、最大にして唯一の目的で、面白さの証明のジャマになるなら、天下獲りさえ無用なのだ。

哲夫と西田が元々別のコンビのボケ同士だったことからWボケのスタイルが生まれたのは知られるところだが、ボケ(の役割を捨てない者)同士のコンビというのもまた、天下獲りにおいては足かせになっているように感じた。

東京で偶然(当時無名の若手であった)おぎやはぎの漫才に触れて焦りを感じた哲夫が、世に出るための最終手段として、西田を誘った経緯があり、なにかと気を回すのは(意外にも?)哲夫の方なのだが、(特にボケ)芸人の性である「自分が一番おもろい」では、お互いが折れない。

時折見られる哲夫の方からの西田を認める発言も、「誘った手前(&これ以上の関係性の悪化は避けたい)」ありきのように感じられ、売れる前から松本人志より自分の方が面白いと言ってはばからなかった哲夫が、隣にいる相方を自分より面白いと認めるはずがないのである。

大抵のコンビの関係性として、ボケツッコミという役割的な部分はもちろん、芸人である前に幼なじみであったり、上下関係があったり、強引なタイプと控えめなタイプだったり、(お笑いと関係あろうがなかろうが)なにかしらの要因でうまいこと収まるもののように思えるが、笑い飯の場合、芸人として知り合い、「面白さ」のみで繋がっているところがあり、関係に柔軟性がなく、よくも悪くもずっと対等なままなのだ(笑い飯の持っているものと今のポジションからすると悪い意味の方が大きいように感じられる)。

これからの笑い飯のために哲夫にやってほしいこと

より個人的な感想、というか、ファンのオジさんからのお願いに入ろう。

前述の「面白さに全フリしてもその他の項目のマイナスのせいで面白10のまま届かない」というところに近い部分で、ごく普通のコミュニケーションがとれないほどに拗れてしまった関係性では、「最高のネタ」は作れたとしても、「最高の漫才」にはならないのではないだろうか。

拗れたオジさん同士が「あの頃」に戻れないのは、同じオジさんとして痛いほどよく分かるが、わだかまりのない関係にはなれると思う。

そのために、二人にそれぞれひとつずつやってほしいことがある。

まず、哲夫から「西田が一番面白いと認めること」。

関係性のために譲るのでなく、しっかり(本人の前で)認めることだ。

私自身、どちらも面白いと思うし、どちらでも笑うが、こと「発想力」においては、(少なくとも哲夫と西田との比較であれば)西田の方が上であることは哲夫本人も分かっていると思う。

発想力だけがすべてとは言わずとも、面白さの「源泉」といえる才能だろう。

哲夫の方から「西田が上」を認めることの助けになるかは分からないが、「ソフトタッチすなー!」「なんでV字やねーん!」とか、何度観ても(なんならそのワードを期待して)笑ってしまうようなツッコミは哲夫に多く、西田のツッコミは形相が本気っぽくて怖いのと、ボリュームが急にデカすぎて耳障りなところがあり、哲夫の方が「いいツッコミ」をすると、私は思う。

肩たたきでキビキビとV字をする西田で笑い、哲夫の「なんでV字やねーん!」でさらに笑う。

となると、哲夫のツッコミ部分で一番笑っていることになる。

ボケ能力もツッコミ能力も「面白さ」の一要素であって、例えば今の一例に対して「どちらかの方が面白い」と優劣がつけられるだろうか?

よくある話、ゼロから1を生み出す方がスゴいとなるが、人類という括りでみればそれは役割の違いであって、希少ではあるにせよ、だからそっちの方がスゴいというワケではない。

西田には「そんな自分スゴい(だから敬え)」ではなく(ってそんなこと言ってはいないが)、人類の中でそういう役割を担えたことを(自分の中だけで)誇りに思っていてほしい。

ただ、ゼロイチという希少パートを概ね西田が担っているのであれば、それをより明確に尊重した方が、(笑い飯という二人の社会は)うまく回るのではないだろうか。

はっきり言って、どちらがやっかいな人間かといえば(哲夫も充分ヤバいがそれでも)西田の方だ。

哲夫が変わらなければ、西田から(笑い飯にとってよい方向に)変わることはないだろう。

哲夫からすれば、どこまでこっちが折れたら気が済むねんってな感じだろうが、まだ気が済んでいないとすると、西田が求道者の如く追い求めているものは、もしかしたら「哲夫の白旗」だけなのかもしれない。

これからの笑い飯のために西田にやってほしいこと

哲夫からの「西田が上」を受けて、西田にやってほしいことは、哲夫にこれまでの非礼を詫び、あいさつ含めごく普通のコミュニケーションをとり合う努力を見せること。

読む限りコミュニケーションを減らすきっかけは西田が作っていて、哲夫はそれを望んではいないが、そっちがそうならしゃあないというスタンスで、「面白さ」のみを除いて、ことごとく哲夫の方が折れている。

面白いもんさえ作れればコミュニケーションなんていらんという判断からなのだろうが、哲夫が日々絶えずそのプチストレスを積み重ね続けていること、そしてそれが笑い飯にとってマイナスであることを、西田には想像できてほしい。

私ことただのオジさんから当たり前のことを堂々と言わせてもらえば、コミュニケーションは全人類になくてはならないものであり、(自分やその周りだけでなく全人類にそれぞれの)ごく普通のコミュニケーションがあるからこそ、異常なコミュニケーション(ネタ)が面白くなるのである。

二人の発想に加えて、普通のコミュニケーションがあれば、ネタは探さなくとも湧いてくるはず(ってそこまで簡単な話ではないだろうが)。

ムダ話もなくただ血眼になって面白いものを探していては、笑えるものも笑えない。

芸人仲間が語る笑い飯のネタ作りの様子がまさにそれだろう。

二人が出会った頃のエピソードにある、哲夫のタバコを買ってきてもらうボケも、西田の「缶コーヒーのフチの灰のシュワ」も、小ボケの類でそれ単体で切り取ってみれば言うほど面白いものではない。

その場の空気、その時の関係性、それまでにあったことなどなど、そのボケがその瞬間に一番面白くなる「ボケ以外のあらゆる要素」があって初めて、お互いに「今これを言うコイツおもろいやん」となったはずで、その判断材料になる「ボケ以外のあらゆる要素」の主成分がコミュニケーションなのである。

そしてその、ボケも含めたすべての要素から極めて純度の高い共通の面白さを感じ取れてなおかつ表現できる二人が同じコンビだから異端なのだ。

「人情屋台朝まで元気村」で焼き鳥をつまみに呑みながら作った「最高のネタ」で、「最高の漫才」を見てみたいものである。

じゃ、おやすむ~!!

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