コロナ禍に読む【自発的隷従論】が「ソレな!」すぎる件

さてとポテト。

いやコレなかなかすごい本読みました。

ひとことで言えば「大衆の自発的な隷従(れいじゅう)が社会を形づくっている」っていう、まるで今を見て書いてるかのような内容の、500年前の本。

ヤモリさん
ヤモリさん

500年前っちゃあ500年前だよねぇ!?

引用バリ多めでお送りしますので、お時間のある時にゆっくり読んで頂ければ幸いです。

500年前から分かっていた「支配したがり支配されたがる」人間の習性

もうだからやっぱり、人間の本質というか、人間という動物の習性なんですよ。

少数の支配したがるヤツと、大多数の支配されたがるヤツっていうのが。

アリとかハチとかの習性をテレビで見て「へ~」とか「ほ~」とか「こんな一生で楽しいのかねぇ?!」とか言ってる自分らが、自分らの哀しき習性に全く気づいてないっていう。

ラ・ボエシさんいわく「従わない」だけでいい

著者のエティエンヌ・ド・ラ・ボエシさんの言う「解決策」は、至ってシ・ンプルでして、ただ「従わない」だけ。

ただ一人の圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

たしかに海外の事例ならソレっぽいのいくつかあったな。

他にもどっかの国で、ワクチン接種会場用意しても誰も来ないから接種中止とか。

まぁでも、それが難しいことも分かっているのでしょう。

今まさに「自発的隷従大国ニッポン」で生かされている身としては、「貫き通すのもなかなかしんどいんすよね~」なんて言い訳したくなるが、やはりというか、そんな大衆の隷従っぷりには、ラ・ボエシさんも目ン玉ひん剥いている様子(予想)。

信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)
ヤモリさん
ヤモリさん

嫌味も出るっちゃあ出るよねぇ

隷従は世代交代で強化される

引き続いての考察もソレなソレな。

遺伝じゃないけど実質そんなようなもんで、そう育てばよりそうなるっていう、子育てにも通ずる本質。

 たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、軛(※オレ注。くびき。牛馬の首輪的なやつ)のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

これもまた。

人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

500年前から今と変わらない「支配者のタイプと特徴」

どんどん行きましょ。

支配者のタイプとか気質なんかも昔から同じ。

ちょっと長いけど、ソレなソレなと。

圧政者には三つの種類がある。ある者たちは民衆の選挙によって、ある者たちは武力によって、そしてある者たちは家系の相続によって、それぞれ王国を所有している。戦勝の権利によって王国を獲得した者たちは、(よく言われるように)「彼らが征服地にいる」ことが、人にはっきりわかるようにふるまう。生まれつき王であるような者も、たいていの場合、これらの者よりもましというわけではない。それどころか彼らは、圧政のただなかで生まれ育ったわけだから、圧政者の性質を乳とともに吸い、自分の下にいる民衆を、父祖から受け継いだ奴隷とみなす。そして、貪婪(※オレ注。どんらん。意地汚く強欲な様)であれ放蕩であれ、とにかく自分がより傾く性格に応じて、意のままに、王国を自分が得た遺産であるかのようにあつかうのである。
 民衆によって国家を与えられた圧政者については、前二者とくらべれば、まだしもましなはずだと思われる。しかしそれも、その者が、自分がほかの人々よりも高い地位にいるのだと考え、「偉大さ」と呼ばれるよく分からないものによって得意になり、金輪際その座から降りるまいと決意しないかぎりにおいてであると、私は考える。このような者はたいてい、民衆が自分にゆだねた権力を、わが子に与えようとする。

~中略~

彼らの支配にいたる方法はさまざまでも、その支配の様態はほとんど同じである。民衆から選ばれた者たちは、臣民をまるで手なづけた猛牛のようにあつかう。征服者たちは、彼らをまるで自分の餌食のようにあつかう。そして圧政の継承者たちは、まるで生来の奴隷のようにみなすのである。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

はっきり言ってここまでソレなソレなと読み進めてきた人は、買うなり借りるなりしましょう。

文庫本サイズで分厚くもなく、字も小さくなく、本編と解説的な文章がほぼ半々なので、それほど構えるようなものでもありません、ってゆーか本編は拍子抜けするぐらい短いです。

さ、続けましょう。

菅さんや小池さんのゾンビヅラで分かる「支配者の取り巻きの哀れさ」

「支配者の取り巻き」は、自発的に隷従する大衆よりも不幸だと哀れむ。

それにしても、圧政者に尻尾をふり、この者の支配と民衆の隷従から利益を得ようとするこうした連中を目にするにつけ、しばしばその悪辣さにあきれる一方で、ときおりその愚かさが哀れに思えてくる。というのも、圧政者に近づくことは、みずからの自由から遠ざかることであり、いわば、両手でしっかりと隷従を抱きしめることでなくてなんであろうか。

~ 中略 ~

自分たちが力のかぎり足で踏みつけ、徒刑囚や奴隷よりもひどくあつかっている村人や農民が、それだけ虐げられていてもなお、自分たちよりは幸福であり、少しは自由であることが、はっきりと理解できるであろう。
 農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は圧政者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気にられなければならない。彼の命によって働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らねばならない。彼のことば、合図、視線にたえず注意を払い、望みを忖度し、考えを知るために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかねばならない。
 はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると呼べるだろうか。

~ 中略 ~

彼らは、財の所有を望みながら、すべての人々からすべてを奪い、だれかのものであると言えるようなものはなにも力を圧政者に与えているのが、ほかならぬ自分たちだということを忘れてしまっている。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

菅さんとか小池さんのゾンビヅラ見てたら分かりますわね。

巨大すぎるブラック企業で働いてるようなもんで、一国(しかも敗戦国)の長なんてもんはトップでもなんでもない。

支配者が一生手に入れられない「人間にとって一番大切なもの」

こうなってくると、ごく限られた支配者だけがすべてを手にするように思えてくるが、実のところ、「人間にとって一番大切なもの」を支配者は手に入れることができない。

たしかなのは、圧政者は決して愛されることも、愛することもないということだ。友愛とは神聖な名であり、聖なるものである。それは善人同士の間にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか生まれない。それは利益によってではなく、むしろよき生きかたによって保たれる。

~中略~

悪人どもが集うとき、生じるのは陰謀であって友好ではない。彼らは友愛を与えあうのではなく、互いに恐れあっている。彼らは友人同士ではなく、共謀者なのである。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

いやはやなんとも、(私みたいなもんがオジさんになってやっと気づく)人間という生き物の生態が、500年も前すでにここまで克明に記録されてるって、ちょっともうスゴくスゴい。

モンテーニュさんいわくエティエンヌ・ド・ラ・ボエシさん16歳時に書かれた本って!?

しかもこれ、ラ・ボエシさんが16歳だか18歳の時に書かれたものらしいんですよ。

っていうのは、ラ・ボエシさんの親友であり、「エッセイ」の語源といわれる「エセー」でおなじみ(って今調べ済!)のフランスの思想家モンテーニュさんがそう言ってるって本書に書かれてます。

ウィキペディアには、実際は大学卒業時の23歳に書かれたとなってますが、生まれたのが1530年で出版が1549年なら、親友の言う16か18の方が合ってませんかね?

ま細かいことは置いといて、二十歳前後でここまで決定的に人間の本質を感じとってしまったら、もうなんかいろいろキツいでしょうねぇ。

500年前から「娯楽を与えられて」うつつを抜かしていた大衆

ラ・ボエシさんは32歳と若くしてペストで亡くなったとされてます。

「自発的隷従論」は、出版こそされたものの、知る人ぞ知る的な作品で、遺稿を預かっていたモンテーニュさんも悪用されやしないかとその扱いには相当慎重だったみたい。

「あのヒトラーが『群衆心理』を読み込んでいた」みたいなことにならないように、とかそういうことですよね。

ちなみに、ギュスターヴ・ル・ボンさんの『群衆心理』は1895年でざっくり100年前の本。

でもホント、「娯楽」についての記述なんてそんな感じあります。

ほどなくキュロスは暴徒たちを抑えこんだが、これほど麗しい町を略奪にゆだねる気にもならず、さりとて平定のためにわざわざ軍を常駐させておくことも望まなかったので、町を確保しておくために一計を案じた。淫売屋、居酒屋、公共の賭博場を建て、住民はそれらを大いに利用すべしとの布告を発したのである。この守備隊はきわめてうまく機能したので、以後は一度も、リュディア人に対して剣を抜く必要は生じなかった。この哀れでみじめな人々は、ありとあらゆる遊戯を考え出すことにうつつを抜かした。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

何回も言いますけどコレ500年前ですからね??

現実から目を逸らさせるために「娯楽」を与えられているワケですよ。

じりっし~
じりっし~

今もおんなじだっし~!!

そんなこととも知らずに、推しのアニメキャラの誕生日にケーキを買って一人で祝ったりしちゃうなんてのは末期もいいとこで(※個人を責めてるんでなく現象としての例ですハイ。なのでもしそんな当人が今読んでるとしたら「ムキーッ!!」ってならずにハッと気がついて頂けたらなによりです)。

どうにもならない現実社会ではひたすら隷従し、ささやかな自由を満喫できるのは小さな頭の中だけっていう。

「自由を求めて戦う人」と「それを阻むために戦う人」勝つのはどっちだ!?

なんかホントもう、救いようのない世の中にあきらめたくなる。

でもね、ラ・ボエシさんが冒頭で言ってます。

 一方に武装した五万人、他方にも同じだけの人数を置いてみよう。そして、会戦させてみよう。一方はみずからの自立を守るために戦う自由な軍であり、他方はその自立を妨げようとする軍である。どちらが勝利を収めると推測できるだろうか。苦しみの代償としてみずからの自由の維持を望む人々と、攻撃を与えたり受けたりすることの代価として他者の隷従しか期待できない人々の、どちらがより勇敢に戦いに赴くと考えられるだろうか。

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

はたして、この先の地球にいるのは「支配者と自発的隷従者」か「自由を手にした人々」か、はたまた誰もいなくなるのか・・・。

やつき諒
やつき諒

「誰もいなくなる」に一票・・・

じゃ、おやすむ~!!

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