「本来の自分でいられない時間」の積み重ねが心を蝕む

生きづらさ

さてとポテト。

私なりの気づきのメモ。

いやね、少し前に初めての集まりに参加する機会があって、近々またそこに行く予定があるんです。

目的そのものは自分の望むことなんだけども、実際参加するとなるとものすごく腰が重いの。

まぁ、ほぼ初対面の人たちなので、人見知り的な緊張感はあるにしても、望むことを求めて行くにしては、我ながらずいぶん憂鬱で。

変に知ってる人より気楽やんとか、できるだけポジティブになれる要素を探したりしつつも、なんか芯食わず。

が昨日の風呂中。

「自分でいられない場所に自分から行くのがキツいんだ!」って急に解ったの。

なるほどそういうストレスなんだわって。

これってもうコロナ以降、幸か不幸かこの世の仕組みに気づいてしまった人はもちろん、誰にでも当てはまる問題なんだけど、意外とハッキリとした認識はされてない気がしませんか。

「初めてだから緊張する」とか「そういう性格だから」ぐらいで納得しちゃってるというか。

でなくて、シンプルに言えば「自分が自分でいられない時間」が長ければ長いほど、ストレスが溜まるってこと。

ちょい掘り下げていきましょう。

「言いたいことが言えない」というより、「思ったことを思った通りに言えない」ぐらいな感じ。

べつにそんな、自分の主張を通すとか強い意味合いでなく、本心を表に出さないようにしてるっていう、軽くモヤモヤする状態。

その辺、女性ってホントうまいっつーか、お互い使い分けてて当たり前みたいなとこありますよね。

世間話は世間話で乗りあって、ちょっと場が違えば思いっきりゲスな会話したりっていうのを、親しさとかそれほど関係なくできちゃうっつーか。

じりっし~
じりっし~

誰かの実例みたいだっし~

まぁいいや。

結果その場でひと言もしゃべらなかったとしても、その状態でそこに居続けなければならないことがストレスになる。

いつもある部分だけは心にフタしてるような。

今で言えばコロナについての認識ですよね。

なんかもう、ココをふんわりぼやかした状態で、(おそらく意見の異なる人たちと)居続けなきゃならないことがキツい。

するとほぼ、日常全般キツいってことになるんですよね。

同級生とたまに飲みに行くんですけど、そういう視点で見ると、近年は「家庭」とその飲みぐらいなんですよね、ナチュラルに「自分でいられる場所」ってのが。

ただ、ここんとこその飲みもあんまり気が乗らず、それはなぜかと申しますと、やっぱりコロナですよね。

みんなワクチン打つしマスクするしで、つっても基本昔から私が「言いたいこと言ってやりたいようにやる人間」であることは受け入れられていての今なので、(冒頭の集まりとは違い)べつにそれを言えない間柄なワケではなくて、ただ単に多分ケンカになるから詰めないようにしてるだけなんですけど。

まーでもやっぱり、乗らなさってのがそこからきてるのは、整理してみればそうでしょうね。

職場はもうそれ以前の問題で。

となると、前記事のマスクと同じように、家の中以外「自分でいられる(心の)居場所」がない状態な上に、わざわざ自分から「自分でいられない場所」を増やす行為になるからこその(過剰に感じられる)ストレスなんだなってのが、整理できたっつー話でした(なので、問題そのものが解消されたワケではない)。

ってこういうモヤモヤを感じていつも思うのは、本当に独り身じゃなくてよかったなぁってこと。

コレ独身の方をディスる意味でなくて、飽くまでも私自身の独身時代と結婚後を比較しての話でね。

だって、今書いてきた状況で置き換えれば「自分でいられる場所」=「自分一人でいる空間」しかなくなっちゃうワケですよ。

さらには、この世の仕組みに気づいてしまえば、エンタメにまみれて過ごすようなことにも心は向かわず、ただ悶々と過ごすばかり。

真っ当に生きようと変にストレスばかり溜め込んで、逆に「いつ事件起こすか」みたいな人間になってもおかしくないですわね。

そういう意味でも、ブログってのは私にとってのいい捌け口なのですハイ。

ま、もうちょいアクティブな趣味を持ちたい気持ちはあるんです、気持ちは。

重い腰上がり待ち。

じゃ、おやすむ~!!

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