娘の卒業アルバムが興味深かった話

子育て

さてとポテト。

娘の小学校の卒業アルバムを、とっても興味深く読み込んでしまった。

ひと通り写真を眺めて、まず文集の娘の文章を読む。

ある時の父の言葉に追い込まれてストレスを感じていたというような内容で、出来事とそれに対して感じていたであろうことは認識してはいたが、しばらく腹痛を抱えていたとは露知らず、申し訳なく思う。

露知らずの「露(つゆ)」って、なんでつけるんだろうか。

一般によく使う「露」の意味は「草の上などにみられる水滴」です。そこから「わずかなこと」という意味が生じました。「露ほども」は「ほんの少しも」という意味です。転じて、あとに打消しの言葉を伴い「ほんの少しも~ない」という意味あいで使われるようになりました。

「露」って何?「露知らず」の意味・語源・類義語などを日本放送作家協会会員がわかりやすく解説 – Study-Z

ふむ。

娘の子育てについては、謝っても謝り足りないというか、戻ってやり直したい場面がいくらでもある。

上の子の宿命と言ってしまえばそれまでだが、親も初めての子育てであり、上の子の子育てを通して(親としての)適切な判断やさじ加減を学んでいくため、二人目以降の子育てと比べればどうしても悪手が多くなってしまう。

悪手の読みって、「あくて」でなくて「あくしゅ」なのか。

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ふむふむ。

娘の文集の具体的な内容はさておき、テーマとして我が子らしくて感心した。

それとなく、娘から名前が出てくる子たちの文章を読んでいくと、なんとも想定外なほどに、しっかりした文章を書く子が多いことに驚く。

私の小学校の卒業文集なんて、自分自身も含めて「どこどこに遠足に行きました。楽しかったです」みたいな、まぁいかにもなやつが大半で、自分のも他人のも読む気にもならなかったもんだが、そんな感じのはせいぜい半数程度(とはいえその半分も文章自体がおかしかったりするものはほとんどなく、内容がありきたりってぐらい)で、あとの半分は、スポーツについてや将来のビジョンなど自分なりのテーマを深掘りした内容や、悩みと対策みたいな感じのものが多く、(いわゆるお手本通りでない)一人ひとりの「思っていること」がちゃんと他人に伝わるように書いてある。

(写真と照らし合わせて、行事とかで見たことある)コイツがこんなこと考えてたのか~なんて思いながら、ずいぶん楽しんでしまった。

一部の子が早熟というよりも、総じて(少なくとも我々の頃より明らかに)知能レベルが上がってる印象がある。

反面、「頭では分かっているけど行動に移せない」という類の内容が目につく。

頭が回るが故に、余計なことばかり考えてしまって、(素直な分だけ大人よりネガティブに引っぱられやすく)一歩が踏み出せない。

知能の発達には寄与するであろう情報過多の弊害か、いわゆる「頭でっかち」になりすぎる。

だである調に疲れてきた。

だいたい我々の頃なんてのは、ただ(現実的にできる範囲の)やりたいことをやって過ごしてただけで、なにかを始める前にそれについてアレコレ考えるなんてこと自体思いつきもしなかったというかな。

ダメならダメで、他の選ぶだけみたいな。

そもそも選択肢なんてあればいい方で、基本はそれひとつだったんじゃないだろーか。

そう思うと、情報と共にできることの選択肢が増えすぎたってのもあるのかもしれない。

こんなんもあんなんもある中で、これはココがいいけどココがイヤで、とかゴチャゴチャ考えちゃう材料がありすぎてなかなか踏み出せないし、踏み出す前にくたびれちゃう。

それだけを見てたら「ずっとキラキラ輝いていたもの」も、アレコレ比べてるうちになんかそれほどいいモノに見えなくなってくるみたいな。

人類は豊かになり過ぎましたし、私はウダウダとしゃべり過ぎています。

シンプルに言うと、私の頃(っつーか私)なら二十代半ばとか、社会に出て何年か経って漠然と感じ始めたようなことを、小6(もしくはもっと早く)から悩み始めてる感じなんですよね。

なんかこう、楽観的な落とし所はないものかと思いを巡らせてますけども、まぁその辺は社会の流れで、そうそう抗い切れるものでもなく、どうにか知恵を働かせて自分なりの対抗策を練るしかないんでしょうかねぇ。

ひとつあるとすれば、「情報がありすぎて踏み出せない」、要するに「不安」というものが、自分固有の悩みというより、人間の本能というか習性というか、単なる反応みたいなものであることを知っておくことですかね。

すると、こうやってウダウダ(マイナス方向に)考え出すってことはもう「とにかくやるしかない」ってことだな、とか自分なりのきっかけに変換できるんではないだろうか。

一人の親としては、文集に書かれていたことに限らず、知らず知らずのうちにそんな社会と併走して娘にプレッシャーをかけていたことを反省して、この先はちょっとユルめに見守っておくぐらいがちょうどいいのかなと思ってる次第です。

実際のところ、そんな心持ちになってから、働きかけずとも(飽くまで親として)望ましい方向に自分から進んでってくれてる感があります。

つっても現代、見守るだけにしちゃ落とし穴が多すぎるんですけどね。

じゃ、おやすむ~!!

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