賢い若者ほど自分を社会に合わせようとしてしまう

生きづらさ

さてとポテト。

ビルに、面接を受けに若者がたくさん来る。

それなりの大学の就活生たちだ。

見てるとすごーく思うんですよね。

賢い人ほど、自分の振る舞いが他人にどう映るかを計算してしまって、またそれがそれなりにうまくできてしまうというかな。

するとみんなが優等生的な正解に落ち着いちゃって、みんなが同じに見える。

まー型通りの就職をしたい人が、そういう手段で臨むのは必然なのかもしれないが、自分一人だけを見た場合と、大勢の中の一人として見た場合を考えると、正解の幅をもう少し広げてみてもいいような気がしたり。

見た目や振る舞いは(直接仕事のできに関係ないので)当たり障りなく済ませて、自分は仕事のでき(まずは面接の質疑応答)で見てもらいたいという人もいるのかもしれない。

ま、もう30年も前に高校を中退して、ことごとく経験や知識や技能を磨くような職に就いてこなかった(就かせてもらえなかった)私がそんな事を考えてもなんにもならんけどな。

思いついたから書いといたが、私が言いたいのは全然そういうことではない。

歳を重ねるごとに、本当の自分を捨てて社会がよしとする人間になろうとする。

それが大人だと思っている、というか思わされている。

ハッキリ言って、深層心理では本意ではないと感じとっている。

“子どもの頃から憧れてたものに なれなかったんなら大人のふりすんな”である。

こうあるのが自然な自分と分かっていながら、そうでない自分になろうとしていれば、そのうちに心を病む。

若者じゃなくたって同じだ。

意識的でも無意識的でも、心からすると無理をしていることに変わりはない。

あるがままに生きてもなにかしらで暮らしていけそうな賢い若者が、また一人また一人と社会に合わせて自分を殺して病んでしまうことを嘆いているのである。

オブラートに包まずに言えば、社会はバカ方向に向かう。

そう、賢い若者が社会に合わせるということは、賢い若者が減りバカな大人が増えることに他ならないからだ。

バカの中で暮らせば一緒にバカになっていく(余談だが、普通クラスと身障クラスの境目だったクラスメイトが、身障クラスに移ってから明らかな身障に変わっていったと、誰だったか古い友人が話していたのを思い出した。令和に身障とか言ってゴメン)。

賢い若者が、これからという時に立派にバカな大人に変身するのである。

昔はあきらめてそうなったのかもしれないが、現代の若者は気づかないままそうなっていく。

こうして社会はますます劣化していく。

まー近年言ってることはたいして変わらないが。

「社会標準=バカ」であることは、もうそろそろ常識にしていかないといけない。

社会への違和感をごまかして、「それが大人」と歩調を合わせていれば、自分もバカの一員だ。

まーなんとも人間の本能というか人類の原則みたいなものをすごーく感じる。

とかそんな話。

じゃ、おやすむ~!!

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