大人が子どもを信じてないから子どもが大人を信じなくなる【寄り道三部作・中】

さてとポテト。

一身上の都合により、中から、だである調になることだけまずお知らせしておく。

ビルの受付に地蔵のようにたたずみ続ける私にあいさつをしてくれる小学生が、寄り道をしていくようになった。

子どもたちにも私にとっても、いい時間だった。

そう、「だった」。

ふと、いい時は続かないんだよなぁ、なんて思った矢先、その時間は終わってしまった。

いわゆる緑のおばさんが、学校に報告したことがきっかけだと睨んでいる。

緑のおばさん連中の中に、クソ真面目な緑ババアが一人いて、クソ真面目なだけに表向きの愛想は他の緑ババアよりいいのだが、「子どもたちを安全に家まで送り届ける」という職務を全うしたい一心で、日々刻々と画一化されていく現代の子どもたちが不意にたどり着いた「古びたビルの受付」というサードプレイスでの憩いのひと時を、断じて許そうとしないのである。

で、おそらくそんな流れで学校からちーちゃんの親に連絡がいったそうで、寄り道禁止になってしまったというワケ。

問題なんて元々どこにもない。

何事もない平和な日々を、わざわざ問題に変えるのは大人だ。

子どもの笑顔を奪うのは、いつだって大人だ。

なにかあったら困る。なにかあってからでは遅い。

過保護というのは、保護する側はただ大切に扱っているだけのつもりでいるが、保護される側からすれば、同時に「信用されていない」という側面も持ち合わせている。

納得のいく理由もなく自分の行動を咎められるのだから、ネガティブな感情の方が強く心に残るのは当たり前だろう。

万万が一の有事の可能性を潰して残る、よくも悪くも無事な毎日の中で、目に見えず変わっていくのは子どもの心。

子ども自身に問題が起きそうな時、起きた時に、考えて行動してみることで、イレギュラーな出来事を経験し、うまくいったりいかなかったりしながら成長していく。

信用されず、(悪いことなどなにもしていないのに)悪い子認定された子どもに残る、今は説明できない感情は、行く行く大人に対して、学校に対して、社会に対しての漠然とした不信感となる。

信用されずに育った子どもは、子どもを信用できない大人になる。

過保護という名の「無意識の不信」の連鎖だ。

せっかく私と関わった子どもに、そんな大人にはなってほしくないから、(まぁ一応仕事中ではあるのですべてではないが)私はあれダメこれダメと言わず、ただ話しを聞き、時には「このダンスしてみて」というムチャ振りにも応え、帰宅を促すことも極力しない。

子どもたちは、習い事があれば時間に合わせて帰っていくし、用事や遊ぶ約束があれば寄り道もせずに手だけ振ってサーッと通り過ぎていく(余談だが、最近の子どもは本当に忙しい。塾だピアノだ水泳だダンスだと、毎日のように習い事がある子ばかりだ。それ故、「家でも学校でも習い事でもない時間」を、寄り道に求めているように感じる。ほんのたま~に30分以上いたりする日もあるが、いても大丈夫な日だからいるのである、ってゆーか30分以上子どもたちの相手をしてても全く業務に支障がない私のお仕事も、このせわしない現代においてなかなか大したもんではないだろうか)。

大人の型にはめず、子どもを信用して任せておけば、子どもにとってよい方向へ自分から進んでいくのだ。

私のスタンスは変わらない。

子どもたちが、こんな場所で、こんな私と過ごすことを選んでくれる限り、そのひと時を守らずしてなにが「生きること」だろうか。

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