未だに【認知的不協和】も知らないの??

生きづらさ

さてとポテト。

わざわざちょいと挑発的なタイトルにしてみました。

ここんとこの世の中眺めてて気になることがありましてね。

多分ですけど、もうニュースでどんな情報が流れようと、今定着しちゃったスタイル変わんないですよね。

たとえばこの先一年365日、ニュースで毎日「今日の感染者数は0人です」ってずーっと流れてても、マスクし続けるし消毒し続けるし、ワクチン打ち続けますよ。

「こんな事実がある」とか「このデータ見てどう?」みたいなことをいくら並べても、すでにもうなんの役にも立ちません。

なぜって?

ほとんどの人が「反応」で生きてるだけだから。

まずしょっぱな、ある出来事や情報に出会った時に、それが「自分の常識」とちがうと不快なんです。

自分を否定された気分になる。

私だってそうです。

多分今の数行前の文章。

ほとんどの人が「反応」で生きてるだけだから。

まずしょっぱな、ある出来事や情報に出会った時に、それが「自分の常識」とちがうと不快なんです。

「いやべつにそんなことないけど」とか「そうとも限らなくない?」とか思いませんでした?

それが「認知的不協和」。

「自分の常識」を元にした「反応」です。

誰だって心当たりあるでしょ?

なんかよく分からん人とか気に食わない人の言うこととかって、すんなり受け入れたくなかったり、なにかしら反論したくなったりするじゃないですか。

やすむ
やすむ

って気に食わないんかい!?

んで、その「反応」のまま行くと、まずその出来事や情報を否定し返して、「自分の常識」の中で都合のいい解釈をしたり、その出来事や情報自体をスルーしたりします。

それが「認知的不協和」を解消する、これまた「反応」なワケです。

否定し返すのも「反応」だし、都合のいい解釈をするのも「反応」だし、スルーするのも「反応」。

「反応」に「反応」するのが不快な状態の解消になるという、「一見合理的な反応のセット」になってる。

そんな感じで、人間って「自分は正しい」と思いたがる生き物なんですよね。

本当に正しいかどうかではなく、「自分は正しい」がストレスのかからない状態。

「ノンストレス=生存に適してる」ってこと。

人間という動物の生存戦略として、自然とそういう「反応」をするようにできてるワケです。

「反応」で日々を生きてれば、少なくとも自分の中では「自分の常識」を正当化できる。

だからみんな、一度自分自身の「反応」で必要と判断したマスクをやめないワケです。

あとからいくら正しそうな情報が出てきても、一度自分が「そんなはずない」と「反応」した類の情報は、否定するしスルーするようになるんです。

くり返せばくり返すほど頑なに。

それこそ意図せず「反応」で、信じることを避けちゃうっつーかね。

んでもコレって、「自分の常識」と「自分の意に反するモノごと」のどちらが本当に正しいかは分かりませんよね?

ってゆーか多分、初動は誰でも「自分が正しい」って「反応」しちゃうんですけど。

それでもいっぺん、「自分の常識」がなにからきてるのか辿ってみましょう。

たいがい、学校で先生に習ったこと、親や友だちの言ってたこと、テレビで聞いた話とか、曲の歌詞とかマンガのセリフとか、そんなことだらけじゃないですか?

あとはまぁ「こうやってみてできたからコレが正しい」っていう(その後突き詰めてない)それ一回の成功体験とか。

いろんな角度から自分なりにでも検証してみて、まずまちがいないと確信できる、本当に正しそうなことってどれくらいあります?

「学校で習ったから正しい」がすでに「自分の常識」からくる解釈だとは思いませんか?

逆に、「自分の意に反するモノごと」の方を正しいと考える人たちも、自分と同じように「なんとなく身につけた常識」だけを頼りにそういう主張をしてると思いますか?

とかまぁ、あんまりダラダラ続けてもアレですね。

人間にはこういう心の反応があること、その反応のままに生きてると「なんとなく身につけた自分の常識」と「本当に正しそうなモノごと」の区別がつかなくなること、そういう人が多ければ社会は必ずしも正しそうな方向には進んでいかないこと。

まずとっかかりのこの辺を認識すると、その先が自ずと変わってくる気がするんですがね~。

心理学ってほどでもなく、誰もが体感して納得できる「人間の原則」みたいなものを、意識せずに生きてる人が大勢いたり、それを利用して自分の利益にする方法を考えて実行する人がいたり。

いやべつに陰謀論とかでもなんでもなく、マーケティングだなんだと言葉を変えて、日常にあふれてるものです。

そんなところで、私が浅~く心配になったことを同じようなタイミングで深~く心配されてたIn deepさんの記事でカッチョよく締めましょう。

ナチスの時代に、ドイツの一般市民の人たちは、実際には何が行われているのかはよくは知らなくとも、ユダヤ人の人々が強制収容所に送られ続けていることは知っていたはずです。

もちろん、このようなことに反対していた人たちもいたでしょうけれど、「国民全体の総意」としてはどうだったかと。

これが、

「通常の価値観が固まった社会の様相」

だと思われます。

その前に体制からの扇動があろうとなかろうと、その価値観が固まると、社会全体がそちらに進む。

第二次世界大戦の中の日本で、「戦争はそれ自体が良くないんだ。戦争に反対しよう」と人々が言えたかというと言えなかったはずです。というより、かなり多くの人びとが、「そんなことは考えなかった」とも思われます。

これも、「通常の価値観がその方向に固まった社会」です。

こういう、ある価値観が社会に定着すると、「それは長く続く」傾向があります。

日常の価値観の瞬間的変転の中での違和感。そして私の中の「死霊」 – In Deep

じゃ、おやすむ~!!

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