もうずいぶん前から懸念されている(というか着々と進行している)格差社会。
ただ、環境問題や少子高齢化、今なら俄然新型コロナウィルスなどなど、山ほどありすぎる様々な問題の影に隠れて、さほど気にされていないように感じます。
数だけ多い下級国民をターゲットにする日本経済
企業は、商品をより多く売ることが使命です。
より多く売るために、より多くの人をターゲットにします。
より多くのターゲットに、より多く売るために、より安いモノを、より安い労働力である下級国民に作らせます。
そして下級国民に限界まで安く作らせたモノを、安いモノだけを買う下級国民に売るのです。
安さより、品質や安全、デザイン、機能性などを重視した商品の方が売れるなら、企業はそういう商品を作ります。
多くの人が、より安いモノばかりを選んで買うという行為が、今の社会を形成していることに他ならないワケです。
ただ楽や便利を求めれば身も心も下級国民
面倒臭い、楽したい、便利なものがいい、みんなそうだと思います。
ひと昔前は、「できることならラクしたい」と思っていても、そのほとんどは叶わぬ夢だったり、相応の努力の結果手にできるモノでした。
それが数十年のうちに、いろんな楽や便利が、庶民でも手が届くどころか、タダで手に入ってしまう時代になりました。
先に楽を覚えてしまえば、努力をしなくなるのが人間です。
「こんな時代に生まれてしまった」と捉えることもできますが、だったら不便な時代に生まれたかったかと問われれば、なかなかそうとは言えません。
便利や楽は、努力や困難に立ち向かう機会を減らし、行動を起こすことのハードルを上げます。
そういう時代の中で、アイデアも行動力もなく、ただ社会の流れに身を任せて、安いだけのモノを競って買うばかりでは、自ずと下級国民になっていくということです。
安いモノ、タダのモノを使い、普及させるのも下級国民なら、それを作らされるのも下級国民。
巧みに形を変えた奴隷制度みたいなもんで、あなた(下級国民及び奴隷扱い失礼します!)が悪いわけではなく、それが教科書に載らない日本社会の仕組みなのですハイ。
そういう点でいえば「ひと昔前」は情報も少なく(それがバレず)、努力と成果のバランスがちょうどいい時代だったのでしょう。
カーナビなしでは目的地に辿り着けなくなった
私は最近、20年来のペーパードライバーを卒業しました。
それで実感したのは、「カーナビがなければスムーズに目的地に辿り着くことなんかできない」ということ。
20年前、すべてのドライバーができて当たり前だったことが、便利なカーナビのおかげでできなくなったワケです。
便利なサービスができて、今までやっていたことをやらなくなれば、いつの間にかできなくなります。
退化です。
下級国民が欲求のままに、楽や便利に乗っかるばかりなら、退化は必然なのです。
冗談のように聞こえるかもしれませんが、私は割と本気でそう思ってます。
「快楽や怠惰」と「負担軽減」を区別する
「みんなやってるから」で、都合よく自分を正当化するのはかんたんです。
えぇ、みんなそうだから
結果、こうやってみんなでなんだかよく分からずに苦しんでるんですハイ。
だとすると、「みんなやってるから」の卒業と同時に、「自分はこうする」の見直しも必要ではないでしょうか。
「洗濯板でやってた洗濯を洗濯機でやる」は負担軽減でいいと思いますが、「自炊がキツいから毎日コンビニ弁当」は、私から言わせると怠惰の部類です。
今しんどい状況にある人には厳しい意見かもしれませんが、たとえ現実しんどいとしても、そこにハマってしまうと「気づかないうちに心身の健康を損なう」ことにもなり、行動を起こせずにますます格差の底辺から抜け出すのが困難になります。
安価で栄養のない加工食品やジャンクフードを食べ続け、不調を薬でやり過ごしながら「人生100年時代」を生きていくということは、「一生格差社会の底辺」宣言のようなものです。
ってなんだか、経済的に底辺で生きることを蔑んでるかのようですが、でなくて、そんな状況の中を旧来の価値観で生きようとするとツラいですよって話になります。
米だけは炊いて、あとはおにぎりでもいいし、納豆、卵その他いろいろ、手間もかからず体によくて安くおいしい食べ物は、見渡せばけっこうあります。
そういう意味では、栄養価と価格が必ずしも比例していないのはせめてもの救いです。
ひとつひとつはささやかな行いかもしれませんが、自分で気づいて自分の行動を変えることが、自分自身の生きづらさの軽減になり、世の中(少なくとも自分の周り)の雰囲気を変える一歩にもなるはずです。
ではまた。
コメント