推しもスマホも現実逃避

生きづらさ

さてとポテト。

最近よく思うんですけどね、なんかもう、いかに現実から目を逸らして生きていくかみたいなモードに突入してますよね、日本人。

庶民感覚として根づき始めてるっつーか。

推し文化とかさ。

ファンとの細かいちがいなんて知らんけど、なんかこう自分の中に取り込んじゃってる感。

「私は〇〇のファンです」だと、自分と〇〇は切り離されてるけど、「私の推しは〇〇です」だと、〇〇を自分の囲いの中に入れてる感じあるでしょ。

で、「推しのため」と「自分のため」がごっちゃになってるみたいな。

生きがいのない自分の現実に勝手に推しの存在(二次元だろうが)を取り込んで、自分の人生に架空の生きがいを作って生きながらえてる。

生きながらえるために(無意識的に)そういう解釈に変えてったっつーかな。

いやなんかズラズラ言っちゃってゴメン。

そういう意味では、情報にまみれた現代人はもう「意味もなくただ生きる」ってことができなくなったんだろう。

ましてこんなネガティブ要素満載の世の中じゃ。

いやファンも推しもやってること同じやんってそうなんですよ、知らんけど多分。

それでも理屈をこねくり回して、なんとか自分をよりみっともなくない存在にして自尊心保ってるみたいな。

とにかくどっか屈折した深層心理からひねり出てきた感じがするんですわ。

べつに自分にそういう側面が一切ないわけじゃないし、ただそういう違和感を感じるってだけの話で、全然好きにやってくれてていいんですけど。

ましかし、もっとかんたんなとこなら、画面ってのは本当によくできた現実逃避アイテムですよね。

テレビ、ゲーム、スマホ、パソコン。

画面があって、その中になにかが映って動けば一瞬でそっちの世界に行っちゃうんだから。

たまに電車乗るともう、みんなスマホの中の世界に行っちゃってるじゃないですか。

乗る時にあの光景見て「こうはなりたくないな」とは思わないもんですかね。。

まそんなこと言い出したら、「本」ってのが画面が登場する前の、元祖現実逃避アイテムなんでしょうか。

その辺アレコレ考えてみるに、娯楽に電化製品が入り込んできたとこがターニングポイントで、そこから人間という動物のメンタル的な処理が徐々に追いつかなくなって今につながってる感じがあります。

なんかホント、エンタメでもスポーツでもなんでも、うまく実生活での自分のやりがいなり利益なり、結果行動につながればラッキーで、ほとんどの人は画面から得るモノゴトによって、分かった気になったり、やった気になったり、(やる前から)こんなことできねーわってあきらめたり、不安が増したり、ただただ心身共に健康を損なったりして、より現実での行動に移せなくなるでしょう。

細かいことばっかりウジウジ考えるくせに、自分が行動するとなると、一歩外に出るレベルのことでも、「国を動かせるわけない」とか(言い訳のために)メチャメチャ大きく捉えちゃったりしてね。。

私自身もけっこうデジタル現実逃避しちゃってる自覚はありますし、いかにその辺を理解した上で「現実から逃げるためのもの」でなく「現実に活かすためのもの」にしていけるかってとこでしょーか。

今っぽく言えば「AIに利用される人間になるかAIを利用する人間になるか」みたいなとこで、まぁいっかでただ世の中の流れに身を任せることなく、少なくとも利用されない人間ではありたいもんですハイ。

じゃ、おやすむ~!!

コメント

  1. Yoちゃん より:

    やすむさん、初めまして!
    毎度楽しみにブログを拝見しています。還暦間近の主婦です。
    今回初コメントですね。

    「いかに現実から目を逸らして生きていくかみたいなモード」
    そうそう、大きくうなづいてしまいましたよ。

    かくいう私もさして変わらない人間でたいそうな事言えませんがね。
    今感じている社会の違和感、やすむさんが言語化してくれてスカッとします。

    ありがとうございます。

    • やすむ やすむ より:

      Yoちゃんへ

      これはどうも、初コメありがとうございます!

      私もまぁ~言うばっかりでなかなか動けない人間でして、子どもに運動しろしろ言うくせに、私はいっつも家にいます。。

      オレって本来もうちょいアクティブなはずだと思いながら。

      しかし読んでくれてる人の存在が感じられるとヒジョ~に活力になって嬉しいです。

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